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アジア通信
第8号 2010年3月26日発行
東京の企業紹介
「ボートの中で培われた起業家精神」(1/2)
 アジアとの関わりをもつ東京の中小企業を紹介します。今回は、ボート・ピープルとして来日したベトナム人、チャン・バン・ジュオン氏が設立した「大洋メタルワーキング有限会社」を、2回にわたってご紹介いたします。

前編 ボート・ピープルとして日本へ
 「ボート・ピープル」という言葉をご存知でしょうか。
1975年、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)が相次いで社会主義体制に移行する中、新しい体制の下での迫害を恐れ、あるいは新体制になじめないことなどから、ボートで海上へ逃れた人々を指して、ボート・ピープルと呼んでいます。
 今回紹介する大洋メタルワーキング有限会社は、ベトナムからボート・ピープルとして脱出し、日本にたどり着いたチャン・バン・ジュオン氏が、2004年に東京都大田区で立ち上げた会社です。自動車部品や医療機器部品等の機械加工生産を行っています。

 大洋メタルワーキングでジュオン社長にお話を伺いました。


大洋メタルワーキングの
チャン・バン・ジュオン社長。
−来日された経緯を教えてください。
「私は、ベトナム南部のプンタオの出身ですが、18歳の時(1982年)、両親をベトナムに残して、単身ボートに乗りベトナムを脱出しました。当時のベトナムはインドシナ
戦争の最中で、とても混乱していました。学校を卒業してすぐの私は、兵隊として戦場に送られるより、他の国で自分の可能性を試したい、という気持ちを抑えることができませんでした。
大勢の人達と一緒にボートに乗り込み、1日1食の生活で一週間ほど漂流しました。とても恐ろしく、つらい体験でしたが、必ず助かる、という希望だけは捨てませんでした。幸い日本のタンカーに救助され、シンガポールに送られました。3ヶ月ほどシンガポールに留め置かれた後、難民として日本に渡りました。」

−日本に来たばかりの時は、苦労されたのでは。
「最初の3ヶ月は、国際救援センターで日本語の勉強をしました。日本語を全く知らないまま来日したので、とても難しく感じました。その後、昼間は印刷会社で働きながら、定時制高校に通いました。日本語が少しずつ身につくにつれて、日本での生活にも慣れていきました。」

−その後、大洋メタルワーキングを起業されるまでのお話を聞かせてください。
「定時制高校を卒業後、機械加工会社に就職しました。その会社で、15年ほど機械加工の技術を磨きました。
まだ日本語を十分に話すことはできませんでしたが、当時会社にいた小川久美子さん(現・大洋メタルワーキング営業担当取締役)が、とても親身に私の相談に乗ってくれました。おかげで会社の雰囲気にも慣れ、じっくりと機械加工の技術を勉強することができました。

【資料】タンカーに救助されるボートピープル
(出典:「インドシナ難民と我が国の対応」内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局)
 そのまま会社に残っても良かったのかもしれませんが、私には夢がありました。それは、自分の力を思う存分発揮できる会社をつくり、同じように日本で苦労しているベトナムの仲間たちの受け皿にするということです。そのため、機械加工の技術に自分でも自信がついた時点で、独立を真剣に考えるようになっていました。」

−外国人であるジュオン社長が起業するには、多くの困難があったのではないでしょうか。
 「はい。一番の問題は、やはりお金でした。銀行からはお金が借りられませんでしたから、知り合いから借りられるだけお金を借りました。おかげで、十分とはいえないまでも、何とか機械をそろえることができました。
 その一方で、小川さんと一緒にこの会社を立ち上げたので、非常に心強かったです。日本語が不自由な私を、いろいろな面からサポートしてくれました。
 また、前の会社での取引先が、私の腕を見込んで仕事を回してくれたことも非常にありがたいことでした。」

−ところで、社名の大洋メタルワーキングの由来を教えてください。
 「海(大洋)をイメージし、大きな志と夢の実現を希求する会社にしたいと思い、この名前を選びました。ベトナムから遠く離れた日本で起業することになったのも、ボートに乗って海に乗り出したからです。海は、ボートの中で描いた私の夢をしっかりと受け止め、そして実現してくれました。
 今地球環境の悪化がいろいろな所で問題になっていますが、美しく広い海は永遠であってもらいたいと願っています。微力ではありますが、私は、これからも安全で安価な部品の製造を通して、より良い社会の建設に寄与したいと考えています。」


 命懸けの渡航を経て、日本で着々と基盤を築いてきたジュオン社長。次号では、このジュオン社長の夢を共有する社員の皆様を紹介します。