ベトナムから来たトランブー ダンです。10月から首都大学東京に研究生として入学します。東日本大震災から1ヵ月後の4月半ばに東京に来ました。
3月の第2週、私は日本行きのためのビザが下りるのを心待ちにしていました。海外留学という夢がわずか1ヵ月後にかなうからです。ところが、皆さんご存知のように、3月11日に日本を2つの大災害が襲い、多くの人的物的被害がでました。津波の影響で福島原発の事故も発生し、事態はさらに悪化しました。世界が衝撃を受け、私の家族も同様でした。ほんの短い間に家の中の空気が一変し、誇らしい気持ちと喜びが不安と恐怖に変わりました。両親は訪日を遅らせたほうが良いと言いました。私は何日もの間コンピューターの前に座り込み、地震後の状況についての情報を集め、担当教授や日本に住む友人との連絡を取り続けました。また今回の地震を通じて、日本のサムライスピリットを実感しました。日本人は驚くほどにずっと冷静だったからです。震災後すぐに国全体が復興への取り組みを始め、心の奥底は恐怖心や痛みや喪失感でいっぱいなのに人々がパニックに陥ることもありませんでした。日本人は前に進むことを選び、何もせずに悲しみに打ちひしがれているよりも、悲しみを乗り越えることを選んだのだと、私ははっきりと思いました。その結果、ただならぬ努力をもって、日本人は最初の厳しい時を乗り越えました。3週間後に、東京での生活は通常に戻ったと友人から聞きました。その時、私の心は決まりました。日本こそ私が行くべき場所だと思ったのです。
ベトナムの若者の多くがそうなのですが、私が日本のことを初めて知ったのはたくさんの人気漫画からです。ドラえもん、ドラゴンボール、キャプテン翼のストーリーが私たちの心の奥底に深く刻まれていました。漫画を読むことで、日本の美しい景色や親切な人々のことを想像していました。大きな被害を受けた東北地方の様子をテレビで見て、私がいつも心に描いていた姿をよみがえらせたいと強く思いました。私の子供時代の大切な一部となっていて、今、私が高等教育を受けるチャンスを提供してくれているこの国の復興に、私も協力したいと思いました。被災地の人々の痛みを和らげるお手伝いをしたいと思いました。とはいえ、自分に何ができるのか、どうすればよいのかは分かりません。幸いにも、友人からの紹介で、財団法人日本財団のボランティアプログラムのことを知りました。そこで迷うこと無くこのプログラムに参加し、夏休みの1週目に活動を開始しました。
このプログラムを通じて、人命、労働、人間愛の大切さについて多くのことを学びました。参加者は70名、うち60人が日本人で10人が留学生でした。宮城県の石巻と田代島に行き、瓦礫の除去と清掃に携わりました。清掃の仕事は私たち全員にとって初の経験でした。厚い放射能汚染防護服を着ての炎天下の仕事でも、私たちは夢中で働きました。やるべきことがたくさんあるのが分かっていたからです。田代島の沿岸部では60名が助かりましたが、地域一帯が被害を受けました。60名の島民のほとんどが老人でしたが、彼らには年齢は何の障害にもなりません。私たちと一緒になって、総勢100人以上の人が海岸の一角を2日がかりで掃除しました。皆が多大の労力をかけて働きましたが、積み残した仕事はたまだまだたくさんありました。このレポートをきっかけに、この美しい島に行き清掃活動を手伝ってくれるボランティアがどんどん増えればよいなと思います。
次の5日間は石巻市に移動しての作業です。石巻は津波による被害がとても大きかったところです。田代島でも行った清掃活動に加え、とても意義深い活動である「灯篭まつり」に参加しました。地元の人たちに混じり、灯篭の光に日本のより良い未来への願いをこめました。数千個の灯篭が水面に浮かび、川を流れ、犠牲者の冥福を祈り、また助かった人たちが災害を乗り越え国を立て直すための力を与えました。
7日間のボランティアプログラムの最も印象的だったことは、日本と日本人についてのまったく新しい見方でした。以前は日本と日本人に感謝の気持ちを抱いていました。ベトナムを初めとする多くの発展途上国、例えばチリ、ブラジル、エクアドルなどが、経済発展や技術について、日本から多くの支援を受けているからです。今回のプログラムを通じて、日本人一人ひとりの不屈の精神に触れました。若い大学生から70歳の男性まで、みんながより良い未来を願いこつこつと働いていました。この願いは、決して小さくなることは無いと確信しています。それは日本人が、笑顔や人に話しかけるときの気さくな態度を保ち、いかなる状況下でも規律正しくあり続けるための力となることでしょう。災害は多くの大事なものを奪いますが、信念を持ち続ける限り、明るい日は必ずやってくると思います。
プログラムは涙の朝で終わりました。地元の方たちとボランティアの間で、ボランティアとその主催者との間で、また留学生と日本人学生の間で、別れの挨拶が交わされました。しかし、これが最後の別れではないと皆が思っていました。私たちはまたここに戻ってくるし、その頃までに被災地も大きく変わり、古きよき日の姿に戻っていてほしいと願っています。
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